Cap&Gown
軍帽
白線
そして
参考文献
日本の角帽
欧米の角帽
学生帽・白線帽

角帽

かつて日本では詰襟の学生服に学生帽は、ごく自然な姿として言わばア・プリオリ(既定のもの、先天的)の学生のイコンとして私たちの日常風景に溶け込んでいました。

明治の時代から大学生のシンボルであった日本独特の角帽の由来は、「東京大学百年史」にある以下の記述が一つの定説になっています。

東京大学創立当時の大学生は「小倉袴(※1)に紺飛白(※2)、紺足袋に麻裏草履、革製日除付鳥打帽子(※3)と云ふ扮装」(和田義睦「学士会創立時代に於ける大学生」『学士会月報』五八三号、八五頁、昭和十一年)が一般的で、ただ医学部においては靴でなければ教場に入れない規則のため、大抵靴をはいていたようである。制服制帽の制定経緯は、和田義睦(※4)によれば次のようであった。

学生堕落防止策の一方法として正服正帽を一定せんと大学生及予備門生評議せしも、当時の学生は殆んど和服なりしを以て、資力の点に於て実行し能はず、せめて帽子丈なりとも一定したしと云う論に一決し、日を期して帽子の型を有志より立案せしめたのである。其時自分の提出した案が全会一致で採用せられ、[略]大倉組へ幾度か見本を試作せしめ、漸く今日の型ができたのである。[略]有志学生は成るべく多数着用する様勧誘することゝなり、山口壮吉氏(※5)と自分が世話人に選挙せられ、我等両人の證明ある切符を以て大倉組より買求め着用する事となつた。予備門生も着用することゝした。是は明治十七年十月と思ふ。翌明治十八年春に至り夏用型を相談して一定した。その型は直様麦稈帽子に玉虫色甲斐絹鉢巻とせり   (「大学角帽の由来」『学士会月報』五〇〇号、十九頁、昭和四年)

公式に制服と制帽が制定されたのは、帝国大学に改組された明治十九年(1886)の四月二十八日であった。
(※1)小倉織(木綿地)の袴 
(※2)紺の飛白(かすり)柄の和服。絣とも
(※3)ハンチング帽の形 
(※4)東京帝國大學工學博士
(※5)史料によっては「山口鋭之助」

日本では江戸時代から漢学の素養を中心とした各藩の藩校教育、庶民では寺小屋の教育がありましたが、それらは全国的で統合的なものではありませんでした。
明治維新の開国によって否応なく欧米諸国の帝国主義・覇権主義の中に入っていった日本は、「脱亜入欧」「富国強兵」「殖産興業」という言葉に代表されるように、西洋から先進的な諸科学諸制度を学びながら、同時にその西洋の脅威、侵略から身を守るための国家建設を緊急に迫られていました。
教育はそれを支えていく根幹でした。

明治2年、維新政府によって後の東京大学の母体になる大学本校(旧昌平坂学問所)、大学南校(旧開成所)、大学東校(旧西洋医学所)が設置されました。特に大学南校に入学してきた「貢進生」とよばれる学生が近代学校・学生のもとになったといわれています。
貢進生は、各藩が自らの費用で年令十五歳から二十一歳までの選ばれた秀才を東京の南校に留学させた制度で、藩の枠を越えた全国的な教育制度と欧米の学問の修得をめざした近代学校の嚆矢とされています。ここから明治の教育を支えた多くの指導者を輩出していきました。
明治5年(1872)8月、日本で初めての学制が公布されます。しかし義務教育の概念や必要性が理解されなかったこと、受け入れる側の学校や先生の体制が不備であったことなどで制度が行き届くにはかなりの時間を要しました。

明治初期の学生は一部の士族の子弟以外は大体において貧乏で生活も楽ではなく、服装も飛白に小倉袴、素足に下駄といった質素なものがほとんどでした。加えて学生の身分や役割が曖昧模糊としていた上、士族出身者は帯刀も許されて素行の荒い者も多く、遊郭や銘酒屋・矢場といった遊里に出入りする不逞の輩が出て風紀やモラルが低下し、近代学校の確立と運営をしていく上においても解決しなければならない問題になっていました。
前述の和田義睦の云う「学生堕落防止策」とはこのことを指していっています。
制服や制帽というものは初期の段階では学生の綱紀粛正と規範の確立のために制定されたものでした。

ところで先に和田義睦の角帽由来の記述を紹介しましたが、明治四十三年四月十七日付報知新聞に、「一高制帽の由来」という標題で、予備門(※6)の学生だった芳賀矢一(※7)の談話を伝える形で以下の記事が掲載されています。

薄暮、若し本郷の途上を過ぎるならば、二白線帽を戴き連れて横隊になった一群の學生が、意気軒昂として、若々しい聲を擧げながら、世界を我物顔に闊歩するのを見る、言ふ迄もなく是は向陵の健兒を以て自ら任じ居る第一高等學校の學生である。
 彼らの戴く二白線帽は、今でこそ全國の各高等學校で採用されてゐるが、最初は一高の專有で其が制帽となる迄には相當の歴史も沿革もある、その變遷の路を親しく頭に戴いて來られた芳賀博士から、其に就いて聞くことを得た。
 自分が大學豫備門に入ったのは學校が未だ一つ橋にあった頃で大學も今の外國語學校邊にあった、其時分には未だ學校に制帽が無い洋服なんど着てゐる者もない、全校でたつた一人あつた様に思ふが總體學生の服装は、随分粗野なものであった。
 所が暫く經つて、 明治十七年頃、制帽を拵へる問題が湧き上った、當時も洋行歸りのハイカラ説が勢力を占めて、愈々制定となると、英國ケンブリッジとオックスフォード大學のを折衷して作る事となった、當時の豫備門校長は杉浦重剛氏で、出来上がったのが、現今の様な角帽だ、それも大學生も被れば、豫備門の學生も被る、何と云っても當時は、軍隊以外に制帽の無かつた時代だから、先づこれが制帽の開祖と言つて可い、自分も豫備門に居たから大いに被つた。
 其後明治十九年三月一日に、帝國大學令が公布されて、從來東京大學と云つて居たのが、帝國大學と改稱され、學校も現今の場所へ轉じた、所が其當座暫く豫備門は東京大學豫備門の名を保存して居た、斯く大學と豫備門とが分れる様になつたので、豫備門では四角な其制帽に一條の白線を引て、大學生と區分する事とした、自分も豫備門の一生として、其を被ったものだ。
 其中に豫備門が廢せられて、高等中學が其に代った、其變更に伴つて、從來の角帽が丸い帽子に改められた、そして高中には、三年の豫科と、二年の本科とが設けられ、豫科はその丸帽に白線を一本、本科生は二本付ける事になつた、其丸帽に二白線の付いたのが即ち現在の一高の制帽で、帽章として橄欖の葉を付ける様になつた、以上が由來である。
 其後自分は明治二十二年、大學に進んで、再び角帽を被る様になった、即ち自分は豫備門から大學へ來る迄に、五度び帽子を新たにした、此一事は單に帽子の變遷を語るのみで無く、又一面において當時の頻繁な學制變更を窺はしめるものである、自分は端なくも此動揺時代に學生であった爲め、様々な帽子をも被って見ることが出來たのである

(※6)明治七年、西欧の学問・文化を急速に吸収するために東京、愛知、大阪、広島、長崎、新潟、宮城に英語学校が設置されました。明治の教育はまず海外文献の翻訳が緊急の課題となり大学に進学する前の語学教育、基礎教育を目指して設置された学校です。東京英語学校は明治十年に東京大学予備門になり、明治十九年に高等中学校、そして明治二十七年、第一高等学校になっていきます。
(※7)東京帝國大學文科大學教授 文學博士

ここで芳賀は三つのことを私たちに伝えています。
一つはハイカラな学生帽としてオックスフォード大学とケンブリッジ大学の学帽があったこと。
一つは制帽といえば軍隊の帽子だったということ。
もう一つは旧制高等学校のシンボル白線帽の由来について、です。

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